本展は、1920年代から1960年代にかけて日展、光風会を中心に活躍した洋画家・中村研一(1895-1967)の人物画の魅力を再発見する展覧会です。2025年は中村研一の生誕130周年、そして小金井移住80周年の年に当たります。この年に小金井市立はけの森美術館が所蔵する名品を一堂に展観いたします。
中村研一は1920年に東京美術学校西洋画科を卒業した後、1923年から1929年までフランスに遊学、サロン・ドートンヌに出品をするなどして画才を磨き、帰国後に本格的に画家としての人生を歩み始めました。1930年、帝展に出品した《弟妹集う》で帝国美術院賞を受賞し、昭和の洋画壇を代表する新しい写実主義の旗手として、官展の美術を牽引してゆきました。戦争画の傑作《コタ・バル》などの発表を経て、戦後は小金井にアトリエを構えて身近な日常の主題を描き、富子夫人をモデルにした婦人像、日々の絵画術の研鑽のために筆をとった裸婦像を数多く残しました。
その中村芸術の生成の底流には、中村自身が思いを馳せた幾多の画家---ティツィアーノ、レンブラント、ベラスケス、ドラクロワ、コロー、マネ、マルケなど---の名前があります。そこにはフランスで知り合った画家モーリス・アスランに影響を受けた灰色調の色彩の芳香が漂っています。
本展では、この中村芸術の秘密を解き明かすべく、彼の著作や言葉をひもとき、周囲の人々のコメントを参考にしながら、約30点の作品をもって肖像画、婦人像、裸婦像の魅力に迫ります。また近年ご寄贈を受けた新収蔵品として《長岡外史氏の肖像》を初公開いたします。この絵のモデル長岡外史(1858-1933)は明治から昭和時代前期の軍人・政治家で、「日本の航空とスキーの先駆者」として知られる人物です。真横に伸びた見事な長いひげは「プロペラひげ」と呼ばれ、氏のトレードマークでした。中村研一の手によって生き生きと描かれた77歳の将軍の迫力ある肖像画をぜひお楽しみください。
小金井市立はけの森美術館

特定の人物を描写した絵画で、像主の個性的な特徴を表し、似ていることが要請されます。表現される部分により全身像、七分身像、半身像、胸像、頭部像が、その姿勢により立像、坐像が、頭部の向きにより正面像、側面像(プロフィル)、四分の三正面像(少し斜めを向いたポーズ)があります。ほかに画家自身を描く自画像やグループを描く集団肖像画があります。また注文主や像主の身分により、宮廷などの公式肖像画と私的な肖像画に分類されます。
フランスでは17世紀に王立絵画彫刻アカデミーが創設され、絵画の主題による格付けが決められました(ジャンルの位階)。アカデミーでは位階の高い順に「歴史画」(神話画・宗教画)、「肖像画」、「風俗画」(市民の日常生活を描く絵画)、「風景画」「静物画」となっていて、肖像画は歴史画に次いで画家の力量が示される分野でした。オランダのレンブラントはその心理描写を深め、肖像画の精神性を高めました。
中村研一の肖像画
写実描写の優れた技量を持つ中村研一は、注文主からの依頼を受け、自由闊達な筆さばきで優れた肖像画を残しました。17世紀のレンブラントやベラスケスの画術を愛し、独自に昭和洋画の写実の道を切り開いた研一の妙技が光っています。本展では館蔵の肖像画の中から10点を選び紹介します。
戦前の1920年代から1930年代前半にかけて制作した8点は、親族やその友人、軍人らを描いたもので、人生の年輪を重ねた個性豊かな風貌をよく捉えています。戦後の1950年代に描かれた2点は、実業家の堂々とした佇まいと芸術家の恬淡とした境地とを描き分け、滋味あふれる描写が際立っています。


1856(安政3)年1月13日 - 1933(昭和8)年4月21日
周防国都濃郡末武村(現在の山口県下松市)に生まれる。11歳のとき長岡弥九郎の養子となる。萩の明倫館(長州藩の藩校)で学び、旧藩主・毛利元徳より外史の名を贈られる。19歳のとき上京し、陸軍士官学校を経て陸軍大学校に一期生として入学、1885(明治18)年に卒業。同期に秋山好古(秋山真之の兄、陸軍大将)がいる。日清戦争では大島混成旅団参謀、日露戦争では大本営参謀本部次長を務めた。累進して日露戦争後には陸軍中将となった。その後、高田第13師団長、京都第16師団長等を歴任。1915(大正4)年、予備役に編入となり第一線を退いた。
退役後、招かれて国民飛行会を創立し、会長となる。1923(大正12)年の関東大震災の直後、帝国飛行協会(日本航空協会の前身)の副会長として、東京に飛行場を作る必要性を説き、国際空港として羽田ほか3ヶ所の候補地を主張。1924(大正13)年、山口県選出の衆議院議員となる。以後、衆議院本会議等で国内航空路の設置や航空輸送事業の奨励など、航空政策の重要性を訴えた。1932(昭和7)年、数え年で77歳となり、長岡外史喜寿祝賀会が開催される(来賓1600余名)。翌年死去、享年77歳、旭日大綬章を受章。
長岡外史は1911(明治44)年、新潟県高田(現在の上越市)の第13師団長時代に、同師団配属となって着任したオーストリアの軍人レルヒ少佐からスキーの技術を教わり、軍隊にはじめて導入、のちに一般人に広めたことでも知られる。これにより、上越市は日本スキー発祥の地と称される。上越市の旧師団長官舎と出身地・下松市の外史公園には、見事な髭をたくわえた外史の肖像彫刻が立っている。この髭はシベリア視察時に寒さ対策のために生やしたとされ、長さは世界一の約69センチにも達した。その手入れには八丈島の椿油をつけていたと言われる。長岡外史の存在は、司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』(1968~1972年)にも描かれ、NHKのテレビドラマ『坂の上の雲』(2009~2011年)では、的場浩司さんが演じた。
主要参考文献 :『航空とスキーの先駆者 人間 長岡外史』長岡外史顕彰会 1976年
中村研一《長岡外史氏の肖像》
2023年 一般財団法人日本航空協会より寄贈
画面右上に「長岡将軍/喜壽像/昭和七年五月/研一写」との記名、年記、署名があることから、逝去の前年に喜寿を迎えた記念として描かれたものと分かる。氏のトレードマークだった「プロペラひげ」を見事に捉え、ひげの先をあえて画面外に出すことにより、その大きさを強調しているかのようである。着衣は勲章を付けた軍服ではなく、退役した人物らしくブラウンのスーツに身を包んでいる。坐像の半身像で、顔は四分の三正面像に近く、からだは右斜め前から自然体で描かれている。氏の特徴のある風貌と人格をよく表現しているといえよう。


男性画家の人生を彩った女性たち---妻、恋人、姉妹、娘、友人知人の女性、お気に入りのモデルなど---を描いたもので、肖像画の世界を広げた人物画のバリエーションのひとつと言えます。自由な着想によって背景、着衣、ポーズなども自在なのが特徴です。花や植物による季節感が添えられたり、犬や猫の愛玩動物とともに描かれることもあります。描かれる人物の性質や暮らしている場所、くつろいだ雰囲気、日常の生活感も大切にされます。
西洋の絵画で、愛妻を描いた有名な先例として、ルーベンスの妻イザベラやエレーヌ、レンブラントの妻サスキア、マネの妻シュザンヌ、ルノワールの妻アリーヌ、セザンヌの妻オルタンス、ボナールの妻マルト、ピカソの妻オルガやジャックリーヌなどがあり、数々の名作が知られています。これらの婦人像には、画家とモデルが織りなす豊かな物語が秘められていて、観る者を魅了してやみません。
中村研一の婦人像
戦時中の昭和20年、渋谷区代々木初台町にあった自宅・アトリエが戦災にあい、戦前の作品のほとんどを焼失した中村研一は、その年の12月に小金井市中町に転居しました(現在の当館の場所)。戦後はここで富子夫人をモデルに、日々の穏やかな生活を記録してゆきました。本展では館蔵の婦人像の中から10点を選び紹介します。
戦前の1920年代の滞欧作には青年画家の探究心がうかがえますが、1940年に描かれた富子夫人の表現形式には、後年の戦後の婦人像に連なる萌芽が見えます。戦時中の疎開先で捉えた富子夫人の姿には愛おしい眼差しが、戦後に小金井にアトリエを構えて描いた富子夫人の連作には、円熟の境地に達した画家と夫人の親密な時間が留められています。


裸婦は、西洋美術において裸の人間、または人間の姿をした神を表現した主題の一つです。英語はNude。画家はなぜ裸婦を描くのかについては、多角度からの言及が必要ですが、一般的には生命の象徴、感情の身体的な表象として描かれます。絵画表現の技術面においては、人体の量塊(マッス)や均衡(プロポーション)、皮膚の肌あいや色を捉えるための学習対象だと考えられています。
裸体画のデッサン、習作のことをフランス語でアカデミーと言います。フランスのアカデミーの高等美術学校では、人体を上手に描くことが画家の勉強の第一歩でした。歴史画の分野でも神話や聖書の世界を描くのに、裸体画の技術の習得は必須でした。プッサン、ブーシェ、アングル、ブグローなどは、この世界の代名詞ともいえる存在です。19世紀後半になると、現実の世界に生きる女性をそのまま表現するようになり、クールベ、マネ、ルノワールらが腕を競いました。
中村研一の裸婦
戦後に小金井にアトリエを構えて、日々カンヴァスに向かい続けた中村研一は、その眼と腕が衰えないようにと、多くの裸婦を描き込みました。富子夫人がこう述懐しています。「研一は常々『裸体を描くのは勉強のためだ』と言っていました。父親とは裸体は描かないという約束で画家になることを認めてもらったのに、皮肉にも研一が世に認められたのは裸体画でした」。本展では館蔵の裸婦像の中から6点を選び紹介します。
1950年頃から1960年代前半にかけての裸婦は、アトリエでポーズをとる立像、坐像、横臥像が、色鮮やかな模様や色面を背景に展開されています。マティスを思わせる色と形の自由な遊びに目を奪われます。1965年作の横向きの座裸婦は、装飾的な構成で新境地を見せています。
