はけの森美術館

富永親徳という近代洋画家がいた―記録と場所をたどる―

富永親徳という近代洋画家がいた―記録と場所をたどる―

“富永さん”に関すること

  今回の展示は富永親徳(とみなが・ちかのり/しんとく 1896~1964)初の回顧展です。
でも、富永さんはどんな人?なんで名前の読み仮名が二通りなの?
展示の前でも後でも、知ったらちょっとスッキリする、“富永さん”情報をお届けします。


名前の読み方は「ちかのり」なの?「しんとく」なの

名前の読み方は「ちかのり」なの?「しんとく」なの

 さて、富永さんの名前「親徳」は、「ちかのり」と読みます。親族からも“チカノリ”と呼ばれているので、本来の読みがこちらであることは確かなようです。
 一方、絵の中のサインに注目してください。サインの綴りは“Shintok Tominaga”、つまり「しんとく」と親徳を音読みしています。
 サインでは一貫してこの綴りが採用されており、富永さんの中で「絵描きとしての自分」を「しんとく」と位置付けていたのかもしれません。この呼び分けは、晩年まで変わりませんでした。


空の見える日本橋

空の見える日本橋

 こちらは日本橋の光景を描いたもの。日本橋の上には空が広がっています。日本橋上空をまたぐ首都高の高架は1963年に完成したので、本作の制作時期はそれよりも前ということになります。また、橋の横には印象的なドーム屋根の「赤煉瓦ビル」が。赤煉瓦ビルは1915年に建てられ、1987年に解体されるまで日本橋のランドマークでした。これも絵の制作時期を推しはかる上で手掛かりになりそうです。
 台湾で青年期を過ごした富永さんが東京にやって来たのは1919年のこと。東京美術学校に入学するためで、アルバムには入学試験用の写真が残されていました。


どこに行った?代表作《凪》と《小港

どこに行った?代表作《凪》と《小港

  富永さんが気に入っていたのが、千葉勝浦の海。ここで夏を過ごし、留守番の家族に手紙を出したこともありました。
  勝浦周辺に取材する作品のうち、おそらく代表作と言っていいのが《小港》。1921年に第3回帝展に出展した作品です。まだ東京美術学校在学中でしたが、第2回に続く連続出展でした。第2回には《凪》を出展しており、こちらは出展をきっかけに富永親徳後援会結成が呼びかけられたという作品です。
  《凪》と《小港》、どちらも富永さんの代表作であることに疑いはないのですが、残念ながら現在所在不明です。絵はがきを見て、ピンときた方がいらしたら、是非とも当館までお知らせください。